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Daredevil by Chip Zdarsky Vol. 1: Know Fear

Daredevil by Chip Zdarsky Vol. 1: Know Fear (Daredevil (2019-)) (English Edition)

大けがから回復し、再びデアデビルとして夜の街に姿を現したマット・マードック。しかし彼の能力は以前に比べて明らかに低下していた。いつもなら簡単に止められたはずの強盗犯のチンピラ相手にも苦戦を強いられたデアデビルは何とか状況を切り抜け帰路に就くが、後日衝撃的なニュースがニューヨークを駆け巡る。デアデビルが人を殺したと。

本作はChip Zdarskyが手掛ける新たなデアデビルのランの第一作。ZdarskyといえばMarvelではHoward The DuckやPeter Parker: The Spectacular Spider-Man、直近ではInvadersを担当していたのが記憶に新しい。自分が読んでいた彼の作品だと地球から出れなくなってしまったスター・ロードを描いたStar-Lord: Groundedや、現実の時間の流れと同じように年を取るスパイダーマンを描くという面白い試みをしていたSpider-Man: Life Storyが記憶に残っている。かといってZdarsky自身には特筆するような印象はなくて、しいて言うならこの人の英語苦手だなというイメージがすごく強かった。本作含め続きのDaredevil誌は何の不自由もなくすんなり読めてるから、単に文体が変わっただけかもだけど自身の英語力が伸びたということにしておきたい。

アーティストはMarco Checchetto。この人は何を描いていたかといわれると結構困るんだけど、前々からちらちらいろんなところで見かけていたアーティストだった。担当作を調べたらOld Man Hawkeyeなんかを描いていたらしいけど、自分が最近見たのは前に紹介したTales of Suspenseのカバーだと思う。この人は細い線を使った繊細な絵が特徴で、特にアクションの構図には目を見張るものがある。お気に入りの技法なのか、夜の街のシーンで随所に霧のようなもやもやを描いたりするんだけど、これまた不透明な雰囲気が出てすごくいい。あとはキャラクターの顔を書く時のどこか憂いに満ちた表情がたまらなくかっこいいから、アクションを描いても人物を描いてもうまいアーティストだ。

本書の話をする前に、まずデアデビルというキャラクターそのものについての自身の印象について書きたい。といっても自分はデアデビルのコミックを読むのはこれが初めてで、何なら彼のようないわゆるストリート系と呼ばれるヴィジランテの話は全然読まないから完全に素人だ。犯罪系の物語から離れていたのには特にはっきりとした理由という理由があるわけではないんだけれど、夜に裏道を歩いたからといってぼこぼこに殴られて財布を盗まれたり、当たり前のようにジャンキーがそこら辺をウロチョロしていたりといった光景がそこまで一般的ではないそれなりに安全な日本では彼らが向き合っているもののリアルさが伝わらないというのはあると思う。アメリカが犯罪大国だとは言わないけれど、自分が数週間程度滞在したときにも何度かやばそうな雰囲気の人に声をかけられたりしたことがあったから、日本よりかは治安が悪いのは事実なのだろうと思う。

とりわけデアデビルというキャラクターに関しては、申し訳ないけれどMarvel版のバットマンといった印象が強かったのも事実だ。いろんな人に怒られそうだけど、幼いころに親を殺されて、復讐のために犯罪者を怖がらせるための悪魔やら蝙蝠やらのコスチュームを着て街を徘徊しているという共通点を見れば正直同じだという感想を持つのは仕方ないんじゃないかとは主張したい。そんなわけであんまりこのキャラクターのファンだとは言えない自分だったけど、家に引きこもっている間何か読むものが欲しかったのと、Zdarskyのライティングの評価がすごくよかったから本作を手に取ることにした。なのでこれを読んでいるとき、自分はほかの作品にはないデアデビル特有の要素は何なのか考えながらページをめくっていた。

本作を読んだ後、デアデビルにとって重要だと感じた二つの要因、それが法と宗教だ。デアデビルは人を殺さない。それは彼がもともと弁護士、本作の時点では保護観察官という職に就いており、法の下で人は平等に裁かれると信じているからだ。だから彼は自身の手で犯罪者を追い詰めつつも、最後の裁きはあくまで法廷に任せる。さらに彼にはもう一つカトリックの教えが強く根付いており、常に神が正しいと判断するかを考えて動いている。

つまりデアデビルになるということはその二つのルールに背かないで、かつできる限り過激な方法で悪と闘う微妙なバランスがあってこそできる行為なのだ。相手がいくら犯罪者だといえども、もちろんコスチュームを着て人を夜な夜な殴るのは違法行為だ。しかしそれでも相手の命は絶対に奪わず最後は法に身をゆだねさせることが彼にとっての言い訳で、その絶妙なグレーゾーンにいるからこそマットは自身がデアデビルでいることを肯定できる。宗教の教えに関してもそうで、いくら教えでは忌み嫌われている悪魔の格好をして暴力を使っていても、あくまでそれが人々を助けるためで、かつ誰もが神に許しを超えるという教えのとおり最後は犯罪者にも自分で生きて罪を償う機会を与えることが彼の主張なのだ。彼がこのバランスを崩して黒に傾いてしまったとき、それは世間から見てどうかではなく、マット自身がデアデビルであることを正当化できなくなってしまう時なのだ。そしてZdarskyはその微妙なゾーンに切り込みを入れていく。

物語冒頭でいきなり殺人疑惑がかかり、かつ元マフィアでデアデビルの宿敵であったキングピンが市長となったことがきっかけで、コスチュームの自警団は危険な犯罪者だという風潮が蔓延したことでデアデビルは今まで以上に法を守る警察に追いかけられて自分の内でも周りからも法という概念に悩まされることとなる。自身のデアデビルとしての行いを正当化するために無実を主張したマットも、この事件に誰の手も加わっていなかったことや殺人を正当化する別のヴィジランテ、パニッシャーと対峙したことでついには自分の罪を認めざる負えなくなってしまう。デアデビルとして最後に市民を苦しめるマフィアと闘った後、彼は戦友であるディフェンダーズと出会う。同じように街のために闘ってきた彼らに罪を告白したマットは、かつて倒してきた犯罪者と同じように自分も法の裁きを受けるのだと確信した。何度も書いた通り、グレーな活動をして警察に追われていたとはいえ彼は法を何より信じているのだ。自分も例外ではなく、罪を犯した者は平等に裁かれ、神に見守られながら赦しを得るために罪を償うと信じていた。

しかしここからが驚きの展開だ。ディフェンダーズは彼を警察に突き出すどころか彼を慰めだす。それはそこにいる誰もが事故で命を奪ったことがあり、ヒーローとしての活動にそんな事故はつきものだとわかっているからだ。

もし現実世界で覆面を着て犯罪者と闘うなんてことをやれば間違いなくそれは犯罪だ。コミックの世界でも、法だけでは世界はよくならないからヒーローたちは己の力で悪と闘っているが、それは法の有用性を半分否定していることを意味する。ヒーローになるということは法に背くことであり、いくら法を信じるデアデビルでもそれは同様だ。ただマットが他のヒーローと違うのは、それでも彼は自身の中で法にしがみつく言い訳を作ってきたことだ。たとえやっていることは同じでも、法を信じながらギリギリのゾーンに手を出すデアデビルと、法を重くとらえずに自身の活動を重要だと考えるディフェンダーズの両者の信念には天と地の差がある。

結局ヒーロー活動そのものを信じられなくなったマットはマスクを手放し、一般人に戻ることにした。本作は前述のとおりまだシリーズの一巻だが、デアデビルだからこその法と宗教という二つの要因を使ってヒーロー活動の危うさを見事に伝え、かつデアデビルが他のキャラクターとどう違うのかをはっきり描いた。これまで全くファンではなかった自分がここまでキャラクターに引き込まれたのは、まさにZdarskyの手腕のすばらしさのおかげだろう。これから先マットがどのようにこの問題と向き合うのか、続きがひたすらに楽しみだ。